多分、もう手遅れだ
音楽室の床に倒れ伏したその人物は、まるで置物のようにピクリとも動かなかった。逆光の帯が幾重にも重なって、埃だらけの室内に差し込んでいた。むせ返りそうな臭気が漂う。鉄分を含んだ血の臭いが酷すぎて、もはや床にぶちまけられた夥しい量の液体が、信じたくないが血溜まりであることは避けられない事実のようだった。
遠くの市街放送のスピーカーから場違いな音楽が流れてくる。遠き山に日は落ちて。そのメランコリックなメロディが、今はどうしようもなく背筋を凍らせる。
「……きゅ……救急車、呼ぶか?」
「いや……」
救急車なんか呼んでも、多分、もう手遅れだろう。早く室内に入って、その生死を確かめねばならないのだが、地に根が生えたように足が動かない。しかし、五人も人が集まって、どうぞどうぞと譲り合いをしている場合ではない。
仕方なく、藤木が勇気を振り絞って室内に足を踏み入れようとしたとき、
「おーい! 松本~。石庭~」
中央の階段から呑気な声が上がってきた。
「おっ、いたいた。中々帰ってこないし、静かだから大丈夫だったんかな……? って思って、来た……んだけど? ……なんかあったのか?」
お気楽に呼びかける声が、次第にシリアスになっていった。階段を上ってきた人物、董家拓海は二刀流のようにモップを両手に構えて、不安げな顔で近づいてくる。多分、気を利かせて武器になりそうな物を持ってきたのだろう。やがて音楽室の前までやってくると、董家はそれをポロリと落っことして叫んだ。
「え? ……ええ? ……ええええええええっっ!!??」
「うっせえよっ! 耳元で叫ぶんじゃねえ」
「ええ!? だって……えええええええ?!」
仰天して、慌てふためく董家にイラっとしたが、そのお陰でいくらか緊張がほぐれた。藤木ははぁ~っと大きく深呼吸をしてから、
「しょうがない……俺が確かめてこよう」
そう言って音楽室に足を踏み入れ、血溜まりの縁まで行ってしゃがみこんだ。
近寄ってみれば一目瞭然、その液体は間違いなく血液だった。流れている量をざっと目測してみても、これだけの量が一人の人間から流れ出したとしたら、死なないわけはないといったほどの多さだった。
その場では手を伸ばしても届かないので仕方なし、藤木は意を決して血の海の中に一歩踏み込んだ。ピチャッと嫌な音が鳴った。まだ流れて間もないのか、その血は粘り気はなく、サラサラとしていた。
藤木は倒れている人物に近づき、脈拍を取ろうと手首を見たが、恐らく防御創であろう、床に投げ出された手首は抉られたようにボッコリとへこんでいて、前腕は内出血で肘まで真っ赤に腫れ上がっている。とても脈を取れるような状態じゃないので、仕方なく、血でヌルヌルする首の頚動脈に手をやって、心拍がないことを確認した。
そしてうつ伏せになっている顔をごろりと横に向けると、血溜まりに埋もれていた顔は真っ赤に染まり、光を鈍く反射してテラテラと不気味に光った。顔面を殴打されたのか、唇が縦にパックリと割れて、歯茎がむき出しになっている。血溜まりにコロコロとした何かが転がっていると思ったら、どうやら男の歯のようであった。半開きになった瞳は焦点が合っていないようで、ビー玉を眼窩に詰め込んだみたいで作り物のように思えた。
後頭部はジュクジュクとザクロみたいになっており、頭蓋が割れて中身が飛び出しているのか、つぶつぶとしたなにやら見えてはいけない物がいくらか見えた。恐らく、これが致命傷だ。
呼吸や意識を確認するまでもない。目の前の男は死んでいる。成美高校の制服を着ていて、見たことのない顔をしているから、恐らく1年生であろう。
「お……おまえ、よくそんなの見て平気でいられるな……」
「死体を見るのには慣れてるからな」主に自分のであるが……「エロサイトに貼られたリンクを踏んだり」
「ああ、そういう……」
いつの間にか背後に立っていた董家が、おっかなびっくりといった顔で、ちらちらと横目でこちらを見つつ、何かに気づいたように呟いた。
「もしかして……そいつ、台場じゃないか?」
「知ってるのか?」
「いや……知り合いというほどじゃないんだけど……」
台場聖。四月に野球部に入部した新入生だが、素行が悪くて練習もいい加減、1週間もしないうちにヤキを入れられて退部した。一体何しに入ってきたんだ? この馬鹿は……呆れて殆どの部員が顔も覚えていない奴だそうだ。董家が覚えているのは、ヤキを入れた張本人であるからだろうか?
ふと見あげると、音楽室のピアノの上に白いタバコの箱が見えた。なるほど、素行不良とはこれのことか……見れば、ピアノの白い鍵盤の上にも、血が赤い雫となって飛び散っていた。
「藤木……どうなの?」
音楽室の入り口で佇む立花倖に首を振って答える。
「すぐ警察に通報しよう。あと、誰か職員室に走らせたほうがいいな」
「そ、それじゃ、俺が行く!」
どうやら完全にビビッてしまった松本が、一分一秒でも早くここから離れたいといった感じで走り出したが、その背中を厳しい声で倖が呼び止めた。
「待ちなさいっ! 一人で行動しちゃ駄目よ」
駆け出していた松本はたたらを踏んで止まった。倖は床に転がっていたモップを一本取ると、隣にいた藤原騎士に手渡して言った。
「あたしたちがどうしてここに来たか忘れたの? ピアノの音が鳴ったから、誰か居ないかって確かめに来たんでしょう。それで、誰かいた? 転がっていたのは死体だけよ」
死体がバンバンと鍵盤を叩くわけがない。
いや、バンバンと鍵盤を叩いていた被害者が、殺されて死体となったのか? 分からないが、少なくとも、バットで自分の後頭部を殴打して自殺するような、そんな器用な人間など、この世に存在しないだろう。
つまり、ここに転がる死体を死体たらしめた第三者が、まだ近辺に潜んでいる可能性が極めて高いわけである。
ハッとした顔をして、董家が床に転がっていたバットを咄嗟に掴もうとした。
「触るなっ!」
大声で叫ぶと、エースの小柄な体がビクリと強張った。
「それ、多分証拠品だ。いわゆる凶器ってやつ。触ったらまずいって」
「あ……そ、そうか……」
ごくりと生唾を飲み込む音が、こちらまで聞こえてきそうだった。
「この部屋も、もうこれ以上下手に触らない方がいいだろうな。現場を保存しなきゃならないから……外に出ようぜ」
藤木はそういって血溜まりから出ると、部屋の外へと歩いて出た。ペタペタと音を立てて、床に血の足跡がついていく……藤木はそれに気づくと、それ以上床を血で汚さないように、靴を脱いで手に持った。そしてぐるりと周囲を見回したとき、ふと、1階で窓を開けていたときと同じ違和感を感じたのである。
はて、なんだろう?
「……そうか。足跡だ」
旧校舎は1年前に閉鎖されて、それから中に人が入ることはなかった。その証拠に、今回藤木たちが旧校舎の玄関を開けると、途端にカビと埃に塗れた酷い臭気に襲われて、これじゃ堪らないと換気して回ったのだ。
校舎内は床も、残された机も、全て埃まみれで、触れば手にベッタリと埃がついたし、歩けば足跡が後に続いた。しかし……
藤木の感じた違和感はそれだ。普通なら、手で触ったり、歩き回ったあとにつくはずの痕跡が、あの教室に入ったとき、既に最初からいくつかあったのだ。それはつまり先客がいたということである。
この音楽室に至っては、逆に足跡がつかないくらい、床に埃が溜まっていない。ピアノの上に、タバコの箱が置かれていることから察するに、この旧校舎はどうやら、普段から、素行のよからぬ人物たちが中に入り浸っていたのではなかろうか。
廊下に出ると、もはやあるだけ邪魔と思ったのか、モップの頭をねじ切ってヤリのようにしたものを石庭が掲げていた。
「どうする? 炙り出すか?」
血の気の多い男は、犯人がまだ潜んでいるかも知れないから、教室をしらみつぶしに探そうと言ってくる。君子危うきに近寄らず。
「なにかあってからじゃ遅い。先に1階の連中と情報共有してからだ」
それもそうだなと、行きより一人多くなった6人で、ぞろぞろと階段を下りていく。何者かが飛び掛ってきやしないかと、自然と足音を立てないように、爪先立ちになっていた。
1階に下りて、校舎前に居た品川みゆきたちと合流した。
階上で起こったことを話すと、みんな半信半疑、動揺を隠せない様子で、あれやれやと質問してきたが、
「とにかく、まずは警察に通報。それから職員室に報告しないと」
と言うわけで、品川みゆきとアンポンタンを職員室に走らせ、藤木は自分で110番通報した。
一段落したら、残った者で旧校舎を見て回った。窓を開けていたときのように、二手に分かれ、あまり深入りしないように確認しあってから、しらみつぶしに教室を覗き込みながら、4階まで上がっていった。
結局、全ての教室を調べて誰もいないことを確認したとき、外はだいぶ日が暮れて、すっかり暗くなっていた。蛍光灯は殆どが外されて、廊下の一部にしかなく、薄暗い校舎の中で死体と共にいると思うと、物凄く心細くなってくる。
音楽室の中の死体をもう一度確認してから階下へ下り、職員室に報告に行ったみゆきたちの帰りを待っていたが、それよりも先に学校の正門にパトカーのサイレンの音が近づいてきた。
続々と警官が駆けつける中、遅れて教師が数人やってきた。どうやら、みゆきたちが事件のことを話しても、全然信じてもらえなかったらしい。プリプリと怒りを露にする生徒会長を含め、その日旧校舎に居た全員が一箇所にまとめられ、一人ずつ順番にかるく事情聴取を受けることになった。
藤木は幸か不幸か通報者で第一発見者であったので、もう少し詳しく調書を取りたいと言うことで、警察署へと招待されるはめになった。送迎の運転手付き、VIP待遇である。
断るわけにもいかないし、仕方ないのだろうな……
溜め息混じりにツートンカラーの車に乗ると、担任教師が乗り込んできた。たまたま現場に居合わせた責任者と言うわけか。それにしても……
『それ見たことか』
音楽室の死体を見つけたとき、彼女は開口一番そういった。一体どういうことだろうと、本人に確かめたい気持ちはあったが、どんな不利があるか分からないのに、パトカーの中ではそれも出来ない。
どうしたものかと、その横顔を盗み見ていると、パトカーがゆっくりと動き出した。窓の外で、夜の街の景色が流れていく。複数台のパトカーが編隊を組んでいるのを見ていると、なんだか自分が凶悪犯にでもなった気分になった。心なしか、町の人たちの視線が冷たい。
信号待ちで止まったら、横断歩道を横切る人たちが、じろじろと無遠慮な視線で覗き込んでいった。動物園のサルじゃないんだぞと、うんざりしながら頬杖ついて、窓の外を見ていたら、歩道であんぐりと大きな口を開けて、馬鹿みたいに突っ立っている馳川小町と目があった。
うわー、面倒くさい。
「運転手さん。ここまででいいんで、メーター倒してくださいよ」
と言ったら、隣に座る倖が思いっきり足を踏んづけてきた。だってさあ……あの女、多分くっついてくるよ? 車と同じ速さで……
信号が変わり、車が動き出すと案の定、ダッシュで小町がついてきた。まるで口裂け女の伝説みたいだ。