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幼馴染の狭い室内に嗚咽が響き渡った。暫く放置していたら、だんだん疲れてきたのだろうか、いきんだ小町がグズりだした。スーパーのお菓子売り場や、デパートのおもちゃ売り場で、稀に見かけるあれである。
これはもしかして、突っ込み待ちか? と、藤木はおおよそ見当をつけたが、この際面白い突っ込みは要らないと思い、普通に声をかけることにした。そもそも、この女より面白いものなど到底見つかるまい。
「正直すまんかった」
ぐずぐずと鼻をすする音が響いて、辺りはほんの少し静けさを取り戻す。
「俺もまさかこんなことになると思わなかったし、突っ込み入れずにスルーしときゃよかったとか思ってるし、いや、まさかここまで自爆してくれるとは思わなかったし、っていうか、おまえ、オナニーばれたくらいでそんな落ち込むなし」
自分はオナって死んでしまったわけだから、もはや何を言っても白々しいのだが、藤木は続けた。
「男なんて友達同士で、一日に出来る回数競い合ったりするんだぜ? それにあれだ、暇さえされば、毎日オナニーの話ばっかしてるしな」
「……マジで?」
でも食いついた。
適当に話をつなげる。
「マジでマジで。ほら、よく言うだろ、男子高校生なんて、オナニーのついでに人生やってるようなもんだって」
「……そうなの?」
「おうよ! 朝昼晩の3回は基本中の基本。そっから先、何回出来るかのディスカッションで毎日が潰れるのだよ。それにほら、昼休みに連れションとかやってんじゃん。あれ、ホントは連れオナニー。気に入ったもの同士で右手の交換会とかしてんの。我の右手と貴様の右手、なぜか気が合うて別れられぬ」
「……それ、聞いたことある」
マジで!? 藤木は突っ込みたい衝動に駆られたが、面倒臭くなりそうなので、ぐっと堪えた。
「あー……まあ、いいや。で、さあ? そろそろ落ち着いたかね」
「あ゛い」
鼻水をだらだら垂らしながら、小町はぐちゃぐちゃになった顔を上げた。
それにしても汚い顔である。直視に耐えないので目を逸らす。
「えー……おほん」
そして、わざとらしく咳払い。
「とまあ、そんなわけで、日々オナニーに対し研鑽を積む我々男子高校生であるゆえに、本日、帰宅と同時にその職業倫理的義務感から、あえて手淫に勤しんでいたことも致し方ないことだと思う」
「はあ……」
「つまるところ私、藤木藤夫が仕方なく義務に準じていると、その行為の主目的たる発射シークエンスにおいて致命的エラーが生じ、その危機的状況に際しカウントダウンを止めようと藻掻くも力及ばず、マスターオブベーションの名の下に集いしおよそ三億もの尊い犠牲の上に、さらにバイコヌール宇宙基地(って何だか響きがエッチだよね)も爆発四散と相成った次第であり、そもそも我が魂の故郷たるアルカディアより舞い降りし天使達の艶かしい肢体に見守られし純白の……」
「あのさあ、藤木。パン! 茶! 宿直! ってくらいに、もっと分かりやすく簡潔にお願い。さっきから何を言ってるんだか、さっぱりよ」
まあ、そうだよなあ……流石に歯切れが悪すぎたと反省し、藤木は覚悟を決めて言った。どうしてこうなった。
「だからその……実はさあ~、オナってたら死んじゃったんだよ。で、今の俺は、なんつーかその、霊魂? みたいな……」
「はあ~?」
胡散臭いものでも見るような目つきで、小町は嘆息した。先ほどまで号泣していたが、もうしゃくり上げることすらしない。あれだけ汚い泣き顔を作って見せたくせに、実に見事な引き際である。嘘泣きだったに違いない。
藤木はイラっとしながら続けた。
「いや、その反応は分かる。分かるけどよ。それじゃ今の状況をどう考える? 俺はおまえにどういう風に話しかけてると言うのか」
「……確かに。なんか頭の中に直接響いてくるのよね。意識しだすと脳みそが痒いわ。ホントに骨伝導スピーカーとか仕込んでない?」
「あのなあ。それ、さっきも言ってたけど、例えば仮に材料があったとして、おまえならそんなこと出来るっつーの? 出来ねえよな? 普通はそんなの……」
小町はあさっての方向を向いて口笛を吹いている。
出来るのかよ……藤木はドン引きしつつ、
「ま、まあ、とにかくその点も含めて、俺の部屋へ行って確かめてくれればいいよ。マジで死んでるからさ」
「ふーん」
「気のない返事だなあ……」
「当たり前でしょ。はぁ~……ま、いいわ。とにかく、あんたの部屋まで行けばいいわけね?」
「おうともさ! あとね、あとね、俺ってば下半身マッパで死んじゃったんだよね。だから、出来ればズボンを上げて欲しいんだわ。それからパソコンが点けっ放しなんだが、その電源を……いや、そんな七面倒くさいことはもういいから、コンセント抜いてくれないか」
「はぁ……なんかまだよく分かんないけど、分かったわ」
そう言うと小町は、やれやれといった素振りで、面倒くさそうに腰を上げて、部屋の窓からベランダへと出た。隣家を隔てる石膏ボードは何年も前に、彼女のキックによって開けられており、そこを通って藤木の家のベランダへと移動した。
「これであんたの部屋に行ったら、実はドッキリでしたとか、そういう落ちだったら、分かってるんでしょうね?」
「そんな命知らずな真似が出来るか」
そして、藤木の部屋の前にやってきたのだが……困ったことに窓には鍵が掛かっていた。オナニーをしていたくらいだから、そりゃそうである。
「あー、しまった。鍵かかってんな……」
藤木はそう呟き、リビングの窓なら開いてるかも知れないと小町に促そうとしたのだが、当の本人はおもむろにスカートのポケットから何やら棒状の物を取り出し、サッシの間に突っ込むと、ガチャガチャやってあっという間に開錠してしまった。
(俺が寝てる間に、奥歯に骨伝導スピーカーとか仕掛けられてないだろうな……)
藤木は不安に思ったが口には出さなかった。
「邪魔するわよ」
勝手知ったる他人の我が家。小町は軽く声を掛けると、気楽に窓をガラガラ開けて、カーテンを開いて室内へと侵入した。
そして何の説明も要らない状況を目撃するのであった。