おまえは友達の友達で友達じゃないんだ
ピリピリとした空気の中、黒板を叩くチョークの音が、やけに耳障りに響いていた。
廊下をガヤガヤと大きな声を上げて他のクラスの生徒たちが通り過ぎる。昼休みを告げるチャイムが鳴っておよそ10分。未だに終わりの見えない板書をイライラとしながら、2年4組の生徒たちが書き写していく。
「はい。じゃあ、午前の授業はここまで。続きは放課後の補習ね」
はあぁぁぁ~~~~っとあちこちで溜め息が漏れた。ただでさえ貴重な昼休みの時間を潰されたうえに、放課後の補習を示唆されて気が滅入る。ふざけんなユッキーとの声に、担任教師は悪びれもせずに、
「ふざけてんのは、そっちの方でしょ。あんたら、どんだけ馬鹿なのよ。はぁ~……溜め息吐きたいのはこっちの方よ。せっかく休みの多い楽な職にありついたと思ったら、たまったまあんたたちクラスの担任だからって、ここんところ、残業、残業、残業よ? 私だって補習なんかやりたくないわよ。とばっちりもいいとこじゃない。今までは逆に補習とかすんなって言われてたのに……それもこれも、あんたらが金持ち連中叩きのめして風通し良くしちゃったせいよ。自業自得よ、自業自得」
「つっても喧嘩を売られたら、買わなきゃ男じゃないだろうが」「まあ、買うよな」「降りかかる火の粉は全力で払わねばならん。仕方なかったんや」「つーか、そもそもその喧嘩を買って来た藤木が悪い」「藤木が悪いよ、藤木が!」「何もかも藤木が悪い」
「いや、ちょっと待て。おまえらだってノリノリだったじゃねえか」
「うっせえ! そんな昔のことは忘れたわ! 殴れ殴れ」
「いててててて! こらっ! マジで殴るんじゃないっ!!」
「顔はやめなさいよ。目立たないところにしときなさい」
教室の片隅で殴る蹴るの暴行を受けている藤木を尻目に、立花倖は不穏な捨て台詞を吐いて教室から出て行った。
ほうほうの体で暴行の輪から抜け出し、自分の席に戻ると、教室の最前列に座っていた朝倉もも子が、いそいそと弁当箱を片手にやってきた。
「藤木君。お昼、一緒にいいかな?」
「もちろん。先輩に閉ざす扉はありませんぜ」
「あのね、今日はハンバーグ作ってみたんだけど」
「いやあ、それは楽しみですね」
部室占拠以降、朝倉は露骨に藤木への好意を示すようになった。
それまではどこか浮世離れしたような美しさを湛えながら、どこへ行ってもアンニュイな空気を振りまいていた彼女であったが、このところはクラスの内外でも、憑き物が落ちたようなすっきりとした顔を見せ、快活に物事に取り組むようになった。
ぶっちゃけ、茶目っ気たっぷりにくるくると表情を変え、生き生きとしたその姿は可愛らしく、それまで興味を示してこなかった校内の男女の目を引きつけ、彼女の好感度はうなぎ上りであった。だが、その彼女の視線が良く見ると、やけに藤木を捕らえていることが多いことに気づかされ、要らぬヘイトを溜めまくっているのだった。
藤木は、そんな朝倉に促されて席を立つと、肩を寄せ合うようにして並んで歩き出したが、数歩もしないうちに足を引っ掛けられて、無様に床に転がされた。
「リア充死ね!」「リア充があああ!!」「くそっ! くそっ! なんでおまえばっかりっ!」「許せねえ……一枚くらいなら爪剥がしてもいいかな!?」
「ぎゃあっ! おまえらしつこいよっ!」
そんな風に、いつ終わるとも知れない暴行を受けているときだった。
「藤木ー! お客さんだよ」
教室の出入り口からクラスの女子の声が上がった。
見ると教室の出入り口を塞ぐようにして、ドア枠の上のほうに顔が半分くらい隠れたデカい男が佇んでいた。教室を出ようとしていた女子は、藤木を訪ねてきた人物を見上げて、おっかなびっくりした顔を隠そうともしないで、脇をすり抜け出て行った。
「誰だ、あれ。見かけないなあ」
手を止めた鈴木たちの声に答えず、藤木はするりと暴行の輪から抜け出してドアの方へと向かった。こんなデカい男は他に知らない。顔は見えなかったが、誰が来たかはすぐに分かった。
「よう、ナイトだったっけ? どうしたんよ。俺に用事か」
「ちゅーっす」
藤原騎士は、体育会系らしい本人は至って真摯だが、言われる方は馬鹿にされてるとしか思えないような挨拶を返してから続けた。
「昨日、先輩に頼まれたやつっすけど」
「ああ、どうだった?」
「監督もさっさとしろってキャプテンに言ってて、それじゃ仕方ないって、会ってもいいって言ってました」
「マジか!? やー、助かったわ。そっか、監督に掛け合えばよかったんだな……おまえら上下関係厳しいもんな」
「はあ……それで、キャプテン、中沢先輩も同席させろって言ってて……」
「中沢を?」
理由はいまいち分からないが、断る理由も無い。
「まあ、いいけど。中沢に話は通ってるのか?」
「いえ。連れてきたら、会ってやるって言って来いって言われました」
「なるほど」
元々、野球部に部室を明け渡せと言っていたのは、中沢たちの生徒会だったし、何かあるのかも知れない。もしくは、弁が立ちそうな味方が欲しいのか。
「わかったよ。どうにか話をつけてみよう……おまえら放課後はいつも通り練習か?」
「はい。18時過ぎには終わってると思います」
そういうとナイトはノッシノッシとその巨体をゆすりながら去っていった。小柄な女生徒とすれ違うと、騙し絵を見てるような錯覚を覚える。ドアに持たれかかりながらそれを見送って、藤木は朝倉に先に部室へ行っているように断ってから教室を出た。
2年生は1年生と違って、クラスは成績順に振り分けられる。最底辺の藤木が4組であるから、1組の中沢はもちろん学年首位クラスで、お互いの教室は端っこにあるので接点が殆どなく、おまけに金持ち連中が多いせいでぶっちゃけ仲が悪かった。
藤木が廊下を1組方向へと向かうと、警戒心を露にした目がちらほら突き刺さり、まるで動物園の猛獣にでもなったような気分にさせられる。たまらんなあ~……と思いながら、平静を装いつつ突き進むと、1組の中からまったく廊下のことを気にかけずに出てきた、横柄な団体にぶつかりそうになった。
その連中はよほど周囲に関心を示さないのか、相手が藤木であることにも気づかない様子で、中沢君も落ち目だなとか、誰に聞かせるでもなく嫌味を言いながら通り過ぎていった。良く見れば、いつも中沢にくっついていた腰ぎんちゃくの顔がいくつか見える。虎の威を借るのも全力なら、手のひらを返すのも全力というわけか。ある意味、尊敬する。
中沢は例の事件以降、少し株を下げたらしい。馬鹿に翻弄された挙句、白露会の学生側の代表と言う立場だったが、それを封じられてはもはやデカい顔は出来ず、ちょっと勢いがなくなると、それまでちやほやしていた連中が、面白いように離れていった。
しかし、白露会を一喝したのも、理事会を事実上制しているのも玉木老人であるから、実際には落ち目どころか相変わらず権力者サイドのトップに君臨しているわけだが……その辺は、こいつらはちゃんと理解しているのだろうか?
別に心配してやる義理もないのだが、その脳の構造を心配しつつ金持ち集団を見送ってから、藤木は1組の中をキョロキョロと見渡した。
中沢は教室のちょうど中心辺りの席に座って、教科書と参考書を広げ、ノートにペンを走らせていた。片手に一口齧られたサンドイッチを握っていたが、それを持っていることを忘れてしまったかのように微動だにしない。
藤木は通りがかりの生徒に呼び出してもらおうと思ったが、露骨に嫌そうな顔をされたので仕方なし、
「お~い、中沢! 中ちゃんや~!」
と、自らだみ声を響かせて呼びかけた。
教室内に残っていた生徒たちがぎょっとした顔をしてから一斉に目を伏せた。辺りが不必要なくらい静まり返る。どうしてそこまで珍獣扱いされなきゃならんのか。やっぱり4組イコール不良とか思ってるのだろうか。目があっても別に妊娠とかしないよ?
中沢は体をピクッと震わせてから、藤木のほうを向き、そこにいる人物を見て首をかしげてから、何事も無かったかのようにノートに目を落とした。しかし、やはり気になるのかちらりと二度見して、そしてやっぱり何事も無かったかのように、平静を装いながらノートに目を戻した。
「いやいやいやいや、そんなに反応しときながら、いまさら無視するのは苦しいって。いいから、さっさとこっち来いよ」
「ちっ……」
中沢は露骨に舌打ちすると、周囲を威嚇するようにぐるりと見渡してから、悠然と席を立ち、教室の入り口に突っ立っていた藤木を突っ張って廊下へと出た。
それほど気安い仲ではないが、中沢とはこのところ、一緒することが多かった。生徒会の引継ぎで度々生徒会室に来るのだが、元々真面目な性格なのか、品川みゆきに頼まれると嫌とは言えず、藤木と同様に雑用を押し付けられてしまい、肩を並べて仕事をすることが多かった。
サバゲーのときのわだかまりは既に無く、生徒会で同じことをやっているわけだから、自然と会話をするようになってきた。かと言って、
「君と僕はそこまで仲が良かったか。教室にまで押しかけられる覚えは無いが」
「奇遇だな、俺も同意見だよ。もちろん遊びに来たわけじゃないさ」
「……と言うと、生徒会がらみか?」
「そうそう。野球部の部室なんだけど」
藤木が一通り説明すると、中沢は得心いったといった感じで、
「ならば仕方ないな。僕も同席しよう。野球部のことは投げっぱなしで気になってはいたんだ」
「つーか、おまえら何か裏取引でもしてないだろうな」
「僕はそんな卑怯なことはしない。君と一緒にしないでくれ」
ムカつく物言いだが、確かにその通りである。
「ああ、そうかい。ならいいけどよ。それじゃ、飯まだだから俺もういくぜ。人待たせてるんだ」
「……文芸部の部室か。それなら僕もいこう」
「なんでだよ」
「別に、君に負けたつもりは無いからさ」
あの日以降、朝倉もも子が変わったように、中沢貴妙もまた朝倉に向けた好意を隠そうとはしなくなった。朝倉はもう終わったことといった感じだが、中沢の方は寧ろようやく始まったといった感じである。この恋の行方がどうなっていくのかは良く分からない。
まあ、自分自身も、朝倉のことをどう思ってるか、良く分からなくなってしまったのだが……
「ああ、そうかい。勝手にしろよ」
独占欲を丸出しに出来るほどに気持ちの整理はついてはおらず、藤木は釈然としない気持ちのまま、中沢と連れ立って校舎を出た。
校舎を出ると、外は少し暗くなっていた。
空を見上げるといつの間にか黒い雨雲が立ち込めていた。湿った空気が鼻を突く。傘を持ってこなかったが、帰りは大丈夫であろうか。どう考えても今日も帰りは夜遅くになるはずだ。教員用の置き傘でも貸してもらえないだろうか……
そんなことを考えながら、正門と部室棟との分かれ道である庭園のところまで来ると、丁度部室に向かうであろう晴沢成美の姿が見えた。なるみは立ち止まって正門のほうを見つめている。
その視線を追ってみると、門から外へ出ようとしている野球部らしき集団が見えた。昼休みに軽く草野球でもするつもりだろうか。藤原騎士の姿は遠目にも見間違うことが無理なくらいによく分かった。集団の中で一回りも二回りも大きいその姿は、なんだか見慣れてしまえば笑えてくる。なにはともあれ、
「おーい! なるみちゃんっ!!」
と、大声で自分の後輩を呼んだ。
すると、おかしなことに本人ではなく、正門の一際大きな影が立ち止まって振り返った。
なんだろう、藤木の声に反応したのだろうか? 振り返ったナイトはこちらを見ている。無視するのもなんなので、手を振ろうかと挙げかけたのだが……その手が肩口で止まった。
良く見ると、彼は藤木ではなく、晴沢成美の方をじっと見つめていた。そして口をポカンと開けてから、なんだ人違いかと言った感じで頭をかいて、正門から外へと出て行った。
なるみの後姿を見守っているが、彼女は一向にこちらを振り向こうとはしない。正門の集団にまで届いたのだ。藤木の声が聞こえないわけがない。一体何を熱心に見つめているというのだろうか。
部室棟へ向かう分かれ道で、中沢が早くしろよと言いたげな憮然とした表情で腕組みしている。
思えば、四月のあの日、部室棟の四階から彼女は何を見下ろしていたのだろうか。文芸部に顔を出すようになってからも、時折思い出したかのように窓の外を気にするその表情を思い出しながら、
「おーい、なるみちゃん!」
藤木は再度、晴沢成美に呼びかけるのだった